【田母神セブン】どうする家康、どうする統御 | 榊原吉典の視点 第7回
「田母神セブン」メンバーで田母神俊雄の元部下、榊原吉典によるコーナー「榊原吉典の視点」第7回として現在NHKで放送中の大河ドラマ「どうする家康」から見て取れる戦国武将の「統御」についての考察をお届けいたします。
〇はじめに
〇どうする信長
〇どうする家康
〇どうする統御
〇人間心理の理解
はじめに
私の故郷は愛知県です。地元では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、戦国三英傑として、とても有名な英雄です。そして、松浦静山による「甲子夜話」の次の句は、信長・秀吉・家康の三英傑の性格を表すものとして、幼い頃から聞いて育ちました。
鳴かぬなら殺してしまえホトトギス 信長
鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス 秀吉
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス 家康
これらの句は、決して本人たちが詠んだものではありませんが、乱世から治世に移り行く時代のそれぞれの段階に適った役割を演じた、三英傑の性格・態度を上手く表現していると思います。ただ、ホトトギスを統御しようとする態度を三句から読み取るとすれば、秀吉が優れているように思います。
信長・秀吉・家康は、よく映画やドラマに取り上げられています。今も大河ドラマ『どうする家康』が放映中です。このドラマでは、三英傑の性格や事件の背景を通説とは異なる解釈をしており、一部の歴史研究家からは反論も上がっています。ですが、真の歴史を知る現代人は誰もいません。敢えて通説や常識を疑って歴史を見直すのことで、新たな発見があるかもしれません。
信長については、比叡山焼き討ちや石山本願寺と戦などのイメージから冷血漢と思われがちです。ですが、秀吉の正室に対する温情ある手紙も見つかっており、人情味のある人物だったと十分に考えられます。なぜなら、秀吉や家康は信長のことが好きで憧れていたはずです。彼らは、信長に統御されていたと思います。家康についても、神君としてのイメージ、また一方ではタヌキおやじのイメージが有名ですが、臆病だったり優柔不断な面については、それほど知られていません。家康のリーダーらしくないところは、史実に散見されますが、江戸時代という長期政権の礎を築いたリのですから、このような事業を成し遂げるには、部下を指揮・統御する能力は優れていないとできないことです。
歴史の偉人たちの真の姿を知ることは不可能ですが、物語として観察したとしても、彼らから多くを学び取ることは可能です。本稿では史実はさておき、『どうする家康』で描かれる、信長と家康のキャラクターを題材として、どうすると統御できるのかを考えていきたいと思います。
どうする信長
気さくさ
乱世を勝ち抜き、群雄割拠する覇者たちを鎮めて、一時の戦いの無い時代を築くためには、強力な力が必要です。秦の圧政を滅ぼした項羽の力も然り、信長も、まさに強い力を持った人物だったと思います。『どうする家康』では、父信秀から厳しく育てられ、強く賢くなることが求められ、信じられるのは己のみといったことが、幼い信長に刷り込まれます。厳しい訓練・練習をを耐え抜いた者は、自らに厳しいだけでなく、意図せず他人にも厳しく接してしまいがちになります。ですが、家督を継ぐまで信長は、近寄りがたい当主ではなかったことでしょう。青年期は傾奇者の姿で闊歩したり、馬廻や小姓たちと相撲を取ったりするなど、個人としての強い戦闘力を持っているだけでなく、古い慣習に囚われず、また、身分の上下の分け隔てなく付き合う気さくさから、部下である近習の者たちからは、強くて親しみやすい兄貴のような存在だったと思います。上下の身分差が厳しい時代において、このような信長の気さくさは、下の者を魅了したことでしょう。この頃の信長は、部下たちと強力な心的関係を築いて、部下から命を預けてもよいという上司のような存在だったでしょう。このように、見事に部下たちを統御するリーダーだったからこそ、桶狭間に勝利して、その後の信長の快進撃が始まるのです。
畏敬?恐怖?
家督を継いだ後、信長は、自身の卓越した戦闘力だけでなく、常識に囚われない発想力を駆使して作戦を立案したり、緊要な時機に陣頭指揮するなど優れた指揮能力を遺憾なく発揮して、大きな大名となっていきます。このころ彼は、部下たち(柴田勝家、秀吉、明智光秀ら始めとする武将)を統御して分権的に指揮(Centralized Control and Decentralized
Execution)していました。分権的指揮が可能だったからこそ、信長本人は中央にいながら、各方面を担当する武将に裁量の余地を与え、彼ら自らの工夫ややる気を引き出し、勢力範囲を拡大していったのです。しかし、勢力範囲が広がり、立場も上がると慢心や驕りも出てくるでしょうし、部下たちとしっかりとコミュニケーションを確保することもなおざりにもなるでしょう。こうなると、かつては気さくがゆえに親しみを抱かれていた信長とは異なり、“おそれ”多い近寄りがたい存在となってしまったのではないでしょうか。“畏敬”の念ならまだしも、”恐怖”を部下から抱かれるようでは、リーダーに好感は抱けません。このように恐怖を抱かれては、部下を統御できるような心的関係成り立ちません。また、幼いときから「信じられるのは己のみ」と言い聞かされてきた信長は、立場とともに猜疑心も大きくなります。さらに、厳しく自己を鍛錬してきた者は、他人には冷たさを感じさせることもあります。それでも、順調なときなら問題にならなかった心のわだかまりが、歯車が狂ったときには、上下の良好な心的関係を決裂させます。その結果、自らの力しか信じられないリーダーには、逆境を好転させる最適解を選択できないだけでなく、難局を乗り越えるための部下たちの力を結集させることもできません。こうして、部下から面従腹背される裸の王様と成り果ててしまいます。強い力を持って、長期に渡って権力を維持した者の多くは、この状況に至ることが歴史からも現代政治からも観察できます。
提供 DALL·E
どうする家康
弱くてもいい
『どうする家康』では、家康は、弱いが優しい人物として描かれています。信長を討つ決心をするまでは、優柔不断なところも多々見られ、リーダーとしては不適なのではと感じる場面ばかりです。ただ、家康の他人に優しい性格は、その相手からは手を差し伸べずにいられない、ほっておけない相手と感じ取られるのは、ひとつの魅力(?)だったかもしれません。一匹では狼の強さには敵わないものの、弱き兎が多くの兎たちを惹きつけ束ねて、力を結集させることで、勝利を獲得することができます。家康は、そんな魅力を持っていたのかもしれません。また、このドラマにおける信長の強さと家康の弱さを見ていると、項羽と劉邦の二人の力関係が思い浮かびます。一武人としての戦闘力については、信長は家康に勝り、項羽も劉邦より強く、信長や項羽は乱世を鎮める強い力を有しておりました。ですが、その後の泰平の世を治める礎を築いたのは、約260年続く江戸幕府を開いた家康であり、約210年の前漢を興した劉邦です。家康と劉邦に共通するところは、両者とも他人を惹きつける魅力を持っていたという点かもしれません。乱世を鎮めるリーダーには強い力が必要であり、部下から”おそれ”られる存在であってもかまいません。部下を従えて先陣を駆け抜ける必要があるからです。ですが、そんな孤独なリーダーの時代は長くは続きません。平和な時代は戦闘力とは別の魅力を求めるのでしょう。
好かれること
リーダーは、他のメンバーより優れた力を持っているからこそ、チームをまとめることができる人物です。状況によって、その力は、腕力だったり、知力だったりします。また、時代によっては、家柄・血筋により生まれつきリーダーだったり、場合によっては